自分語りじゃつまんない -とある社会学徒の模索

立脚する<リアル>は人によって実に様々で、それでもよくまあ、僕らは互いに反目することなく穏やかに日々を過ごしていることであるよ(詠嘆)



学問の世界にも流行や廃りはあるわけで、僕が首を突っ込んでいる社会学界隈にもよーく見られる現象なんです、よ(自信なさげ)。ここ数年で言えば、(とりわけ若年層の)労働環境に関するもの、インターネットを通じて興隆する世界に関するもの、グローバル化とそれに照応したローカリゼーション、なんてのが流行の部類に属するのでしょう。


それに引き換え僕の主戦場たる農村社会学なんてまあ風前の灯で、そりゃ「これが如何にもムラ社会でござい」なんてものは雲散霧消、根強く残るそのマインドとは言え、学者を食わせるにはあまりにもマーケットが小さくなりすぎた、社会政策への提言の意味でも世界認識のための概念供給という意味でも。



ところがどっこい、ニッポン全国津々浦々が一般意思2.0に席巻されるかと言えばさにあらず、ウェブにリアルを感じる人も居ればウェブはツールでしかない人も居るし、更にはそもそもウェブなんて(検索とメール程度しか、という層も含めて)使ってねーし、なんて人まで実に多様な社会集団で構成されているのが実態というところでしょう。誰だよニッポンを単一社会とか教えたヤツは。


けっきょく、各人が立脚する<リアル>に応じて言説は供給されるのです、とゆー連符的社会学()を地でいく話にしかならないのだけれど、でもそれって、ホントに僕ら(=社会学徒とその一派)が「社会学」っつー学問に望んでいることなのかしら?


「曖昧な社会事象に言葉を授けて認識の俎上に載せる」という役目はとりあえず果たせていると思うんですよ、現状。ところがどーも、単に自身の準拠集団を語る言葉を求めてやまないだけの人、みたいな人がちらほら見受けられるような気がしていて。
“キングオブ曖昧”たる「全く話も噛み合ない、ワケ分からんアイツら」を捉えられるという大きな効能がすっぽり抜け落ちてしまっているよーな気がしてならないんすよね。


社会学を勉強していて何がいいかって、自分の世界をツブされそうなときに抗う言葉を用意できることと同時に、相手の世界も簡単にはツブせないでしょ自分と同様の理由で、ってことに自覚的になれることだと思ってきたのだけれど。どーも、自分(の世界)を守るため相手をツブしにかかっている人も、結構いらっしゃるような気がします。


異質なものへの想像力、なんて言ったらカッコ付けすぎな気がするけれど、「僕はワケ分からん人とともにあるのだなぁ(詠嘆)」くらいのところを出発点にしないと、あまりにも自分語りに聞こえてしまってつまんねーよ、という、それだけのお話でした。